次はどちらへ?

「次はどちらへお出かけですか?」なんて書いてしまうと、西山荘で次の諸国漫遊について思案している水戸のご老公のようですが、旅ということについては同じです。母を連れて、こんどはどこへいくか、です。

母はそれほどあちこち旅したことがある人ではなく、もちろん旅行もそれほど好きというわけでもないので、行ったことのある都道府県を挙げた方が早いくらいですが、ここへ来て、「あそこへ行きたい」「ここにも行ってみたい」といろいろ言い出しています。やはり自分の老い先を考えると、「動けるうちに」と考えるのでしょう。

もちろん、あたしだってそれはわかっていますが、もちろん先立つものがあっての話ですし……。先日の京都のように一泊くらいであれば、なんとかひねり出せなくもないか、といった具合ですね。そして母の希望では奈良か金沢です。

奈良は、まずは大仏を見てみたいそうです。奈良で一泊なら東大寺、春日大社、興福寺で一日、もう一日取れるのであれば、薬師寺や唐招提寺などの郊外を回るか、あるいは法隆寺へ行ってみるか、といったところでしょうか。あたしも法隆寺は行ったことがないので是非行ってみたいと思っています。

金沢の場合、見るべきところは兼六園と金沢城くらいでしょうか。21世紀美術館もちょこっと見学するくらいはできるかと思いますが、県立図書館まで足を延ばすのは難しいかも知れませんね。これなら日帰りも可能かもしれませんが、さすがに母の年齢では一泊しないと疲れてしまうでしょう。

上にも書いたように、母がそれほど旅行好きではないので、それでも生きているうちに行きたいと言っているのは、いまのところ上記の二か所です。さて、果たして行けるのでしょうか?

濁点とか多言語対応とか

先日の関西ツアーで感じたこと、気づいたことを少々。

たまたま看板を見て改めて気づいたのですが、「鶴橋」って「つるばし」ではなくて「つるはし」なんですね。つまり「BA」ではなく「HA」ということです。

大阪は「橋」が付く駅名(地名?)が多いですが、天満橋、淀屋橋、京橋、日本橋、どれも「橋」は「ばし」と読み、濁らずに「はし」と読む地名は思いつきません。なので、「鶴橋」も「つるばし」だと思っていたら、あれ間違えた、濁らずに「つるはし」と読むんですね。

濁らないといえば、関東の茨城は「いばらき」ですけど、大阪の茨木は「いばらぎ」だと、これまた長いこと信じ込んでいたのですが、大阪の茨木も濁らずに「いばらき」と読むようです。駅の看板には「き」と表記されています。この歳になって学ぶことがまだまだたくさんあります。

こういう表記ついでに思い出しましたが、新幹線の車内放送やドア上部の電光掲示って日本語と英語で表記・放送されています。でも、これもそろそろもう少し多くの言語に対応できないものでしょうか。少なくとも中国語と韓国語には対応してもよいのではないかと思います。

英語は国際語、どこの国の人でもある程度はわかるだろうという理屈もわかりますが、これだけ海外から多くの人が来ているのですから、英語以外も充実させてもよかろうと思うのはあたしだけではないと思います。

鹿苑寺金閣

母との京都観光、二日目にして最終日。

今回泊まったのは京都駅前に建つ新阪急ホテルです。直前の関西ツアーでは梅田の新阪急ホテルに泊まっていたのですが、阪急ホテルの連チャンです。

そして、まず向かったのは、母もあたしもこれまで一度も訪れたことがなかった鹿苑寺の金閣です。数年前に金箔の張り直しが終わって、金閣寺と言うよりも金箔寺と呼んだ方がよいくらいの輝きでした。

この日の天気予報では曇り時々雨、むしろ雨が主役のような、あいにくの空模様と言われていたのですが、写真をご覧いただければわかるように、そこまで悪くはなりませんでした。パラパラと雨が落ちてくることもありましたが、薄日が差す時間帯もあったりして、観光に支障が出るようなことはありませんでした。

そして目的である金閣。金閣寺と呼びたいところをグッと堪え、やはり鹿苑寺金閣と呼ぶべきだと思っている自分がいます。9時からの拝観ですが、9時半くらいに到着したので、観光客はまだ多くなく、修学旅行とおぼしき学生たちも少し来ている程度でした。ですので、このように人っ子一人写っていない写真が撮れました。

教科書や観光案内のポスターなどで見慣れた金閣を写真に収めると共に、初めて見た側面や裏側も興味深いものでした。それにしてもキンキラキンですね。印象としては大改修が終わってあまりにも白くなりすぎた姫路城を思い起こさせます。

そう言えば、学生5人くらいを案内しているおじさん、たぶん観光タクシーの運転手さんではないかと思われますが、金閣の三層の説明をしていました。仏舎利を知らない生徒たちには苦笑を禁じ得ませんでした。

そう言えば、別のグループでは「君たち、弘法大師って知ってる?」と聞かれてポカンとしている生徒たちに、「じゃあ、空海って知っているでしょ?」とさらに聞かれても答えられないグループがいました。もうちょっと勉強してくれよ、とあたしもついつい愚痴っぽくなってしまいました。もちろん心の声ですが。

さて、境内の植え込みにこんな花を見つけました。いや、花でいいのですよね。見た感じはスズランのような形をしています。あたしは植物に疎いので、それに植栽のところに名札が建っていなかったので、これがどんな植物なのかわかりません。

金閣を巡ると、あまり見るところも少なく、あっという間に参詣路が終わってしまいます。もう少しじっくり見たとしても、意外と短時間で参観できてしまう場所ですね。金閣を見終わった後の参詣路脇には、こんなところがありました。

看板には「銀河泉」と書いてあります。そして、そのすぐそばにあったのが最後の写真。こちらは「巌下水」とあります。どちらも室町幕府・三代将軍、足利義満に縁のあるもののようです。

義満で思い出しましたが、あたしが子供の頃に見ていたアニメ「一休さん」では、まだまだ将軍としてギラギラ政務を執り行なっていた義満が出て来ますが、義満が出てくるシーンでは必ず金閣が舞台として登場していた記憶があります。

子供心にも、きらびやかな金閣、そして派手好きな義満の性格は、お坊さんである一休さんの暮らしぶりと対照的で、なおかつ一休さんは後小松天皇の子供だということが、判官贔屓的な感情を呼び起こしていたと記憶しています。史実ではないでしょうが、子供の頃にテレビアニメで見ていた舞台に自分がいるというのは不思議な感覚ですね。

ただ、義満がここで政務を執っていたのはまだ理解できるとして、ふだんの寝食もここで行なわれていたのでしょうか。目の前の金閣からはとても生活感を感じられません。あるいは当時は金閣のそばに、義満の生活の場、また側近たちが勤務する場としての建物がもっと建ち並んでいたのでしょうか。そんなことが気になりました。

親孝行は親が生きているうちに?

関西ツアーを月曜から水曜までこなし、普段であれば、そのまま水曜日の夕方に帰京です。あるいは木曜まで関西ツアーをやっていたかもしれません。しかし今回は帰京せず、木曜日に休暇を取って、京都観光をしました。

前々から母を京都旅行に連れてこようとは考えていたのですが、なかなか機会が作れず、そんなこんなで母もあたしもかなり歳を取ってしまいました。これは急がないと足腰が覚束なくなりそうと思い、意を決して今回実行に移したわけです。

水曜日は、あたしはまだ仕事をしていましたが、母に東京から京都まで来てもらい、仕事が終わる5時半頃に京都駅で待ち合わせ。そのままホテルに荷物を置いて夕食へ出かけました。食べに行ったのは先斗町のいづもやです。四条大橋のたもとにあるお店です。

いただいたのは写真に写っている、瓢箪形の器に京料理が入っている「ひょうたん弁当」です。天麩羅付きでいただきました。あたしはこのお店には過去に何度か来たことがありまして、毎回このひょうたん弁当を食べています。

運ばれてきたときは、名前そのまま、ひょうたんがお盆の上に鎮座していますが、三段重のようになっていまして、広げると二枚目の写真のような感じになります。ご飯と味噌汁、お漬物が別に並んでいて、この後、天麩羅が運ばれてきました。母だと、この量でも十分すぎるようで、天麩羅もあったので、相当お腹もいっぱいになったようでした。

ちなみに、写真の後ろはガラスで、外は鴨川です。夏になると納涼床が設置されることになります。京都の人に聞くと、納涼床とは言っても暑い夏の屋外は夜になっても蒸し暑く、冷房の効いた店内で食事をする方がよいとのことです。納涼床で食事をしたがるのは観光客が中心なのですかね・

観光客と言えば、当日のいづもやも外国からの人たちが大勢食事に入っていました。それほど高いお店ではないですし、かしこまった作法が必要というわけでもないので、外国からの人でも入りやすいお店なのだと思います。あたしと母がいただいたようなザ・和食というメニューもあれば、うなぎやしゃぶしゃぶといった選択肢もあるので、そういうところも外国の方には人気なのかも知れません。

ゆうパックに文句を云いたいのです

荷物を送るときに、クロネコヤマト、佐川急便、西濃運輸などいくつか選択肢がありますが、皆さんはどれを使うことが多いでしょうか。本日は関西ツアーのときに利用した、ゆうパックについてちょっとクレームを書きたいと思います。

関西ツアーで泊まっていた梅田のホテルは、ゆうパックを推奨しているのか、部屋に置いてあった送り状はゆうパックのものでした。あたしは特に「この業者がいい」という希望もないので、部屋に置いてあった送り状に必要事項を記入しました。

そしてチェックアウトの朝、つまり2日の金曜日にホテルのフロントで荷物を預けました。配達の希望は翌日の午前に丸を付けておきました。洗濯物が入っているので、午前中に届けば、さっさと洗濯できるからです。

そして昨日の土曜日。朝から待てど暮らせど届きません。実は郵便局からの荷物は朝一番で一つ届いたのですが、それは通販で購入したものの配達でした。そして午前中が終わり、お昼を回りましたが届きません。大阪で出した荷物が届いたのは午後3時ごろでした。

届いた荷物の送り状が一枚目の画像です。右上の方をご覧ください。あたしは「午前」に丸を付けていたのに、それがバツで消されて「14時~16時」のところに丸が付けられています。いったい誰がこんなことをしたのでしょう。

そして届いた荷物には、さらにご丁寧に「14時~16時 ご依頼主のご希望により14時~16時にお届けします」というシールが貼られていました。「ご依頼主」ってあたしの筈ですが、どうしてこんなシールが貼られているのでしょう。

そりゃ、午前中に着いたら嬉しいですけど、大阪から東京という大都市間とはいえ、翌日の午前に配達するのが厳しいのであれば、荷物を預けたときに言ってくれれば、こちらもそれで納得したのです。もちろんホテルで預けたときには何も言われませんでした。

土曜日の午前中に送り状の番号で検索してみますと、なんと朝の7時には地元の郵便局に届いていました。これなら午前中に届くだろうと思い込んで待っていたのです。それなのにどうしてこういうことになったのでしょう。郵便局内でどういう事情があったのかわかりませんが、午前の配達が無理であれば、電話連絡の一本でももらえれば納得できたのです。

わざわざ送り状を改竄し、さらにシールまで貼って、いったいどういう体質の組織なのだろうと思ってしまいます。これからはゆうパックは使いたくないなあと思った次第です。

大河ドラマの時代には……

火曜から金曜まで、三泊四日で訪れた関西ツアーのスナップを少々。

京都産業大学内にある紀伊國屋書店ブックセンターで、書評に出た本のフェアを開催中でした。昨年もこうしてたくさんのメディアで取り上げていただきました。ありがたいことです。

そして同じ紀伊國屋書店ブックセンターの一角です。こちらは大学出版部協会の書籍を集中的に並べているコーナーです。

特にフェアというのではなく、ふだんからこういう陳列になっているようです。やはり大学内の書店ですから、大学出版部協会の書籍とは相性がよいのではないでしょうか。

そんな書店でのスナップはさておき、京都市内でこんな碑を見かけました。大極殿の跡地だそうです。「おお、こんな場所にあったのか」と不意打ちを食らったような気持ちでした。

古典や日本史の教科書、あるいは古語辞典の付録に平安京の図が載っているのを見たことがある人は多いと思います。平安京の北に内裏がありますが、現在の京都御所がこの内裏ではないことは意外と多くの人が忘れているのではないでしょうか。平安京の内裏って時代と共に場所が移っているんですよね。

というわけで、現在放送中の大河ドラマ、つまり藤原道長の時代だと内裏はどこにあったのでしょう。あの平安絵巻が繰り広げられた場所は、現在の京都御所の場所、それとも本来の内裏の場所、どっちだったのだろう、などと考えながらドラマを見るのが好きだったりします。

それにしても、この「大極殿蹟阯」の字体、非常に興味深いですね。

ふじはふじでも

昨日のダイアリーで不二家のスイーツについて書きました。「ふじ」つながりというわけではありませんが、昨日はきれいな富士山を見ました。

既にご存じの方もいらっしゃると思いますが、昨日から関西ツアーに出ておりまして、その往路、新幹線の中からきれいな富士山が見えたのです。このところの関西ツアーでは、横浜を過ぎたあたりで睡魔に襲われ、富士山を見ることもなく関西に来ていたので、実はこちらの「ふじ」も久しぶりの富士山でした。

もちろん、富士山というのは気難しいもので、晴れているのに見えないことはよくあります。新幹線に乗っていて、しっかり起きていたのに見られなかったことは一度や二度ではありません。すぐ目の前に雄大な富士山が見えるはずなのに富士山の姿が見えないことが実に多いのです。

しかし今回は、天気もよく、青空に映える富士山を見ることができました。ついついスマホで写真を撮ってしまいましたが、スマホで撮るとずいぶんと小さく写るものです。目で見ている富士山はあんなに大きいのに、スマホ画面の富士山はどうしてこんなに小さいのでしょう。

僕が見たかった青空

北京の大気が汚くて、青い空を見ることがほとんどないと言われているのは、日本のニュースでも取り上げられているので、ご存じの方も多いでしょう。あたしがかつて北京に行ったころは、オリンピック前だったので、街全体が工事中で、どこもかしこも非常に埃っぽかったのを覚えています。

昨日のダイアリーでご紹介した写真も、デジタルではなく数十年前のアナログ写真をスキャンしたものなので色褪せている部分もありますが、やはり北京の空はすっきり晴れることが少なかったなあ、といまさらながら思います。ただ、もちろん大気の状況が悪かったのは確かですが、非常によく晴れた日もあったことも事実です。

こちらこちらのページに掲載した写真を見ていただけるとわかるように、こんなにすっきりと晴れ渡った北京の空もあるのです。空模様に助けられ、われながら非常によく撮れた写真だと思います。

辰年からの連想で九龍壁が登場し、そこから懐かしい訪中時の写真に話題が移ってしまいましたが、もう一度「龍」に話を戻すと、2018年の暮れに横浜の中華街へ行ったとき、通りの上にこんな飾りがあったのを思い出しました。別に辰年でもないのに龍が飾られていたのでどうしてでしょう。やはり中華圏の縁起物と言えば龍なのでしょうか。

あと、あたしたち世代ですと、こんな映像を思い出す方も多いのではないでしょうか? アニメ「まんが日本昔ばなし」のオープニングです。このメロディーとアニメーション、懐かしいと思う方も多いのではないかと思います。少なくとも、あたしたちの世代なら誰もが子供のころに見ていた番組だったと思います。

辰年なんだから、地上波で再放送してもよいのではないでしょうか?

パノラマに写ルンです

昨日のダイアリーで書いたように、学生時代に語学研修で北京に行ったときの懐かしい写真を眺めていました。当時はスマホもデジカメもなかったので、あたしはフィルムカメラ(たぶんCanonかNikonのどちらか)に、36枚撮りフィルムを10本くらい持って訪中しました。そのアルバムが何冊もわが家の書架に並んでいて、その隣に、その後の訪中で撮った写真のアルバムを見つけました。

それをそのアルバムのページをめくっていましたら、なんと昨日のダイアリーでは撮っていなかったと書いた、北京故宮内の九龍壁、その全景写真が見つかりました。それが右の写真です。なんと、こちらのページに掲載していたのを完全に忘れておりました。1992年に北京を訪れたときに撮ったものです。

そのアルバムを眺めていたら懐かしくなってきましたので、ここで何枚か改めて披露したいと思います。まずは北京の天壇公園です。北京の旅行ガイドにもしばしば使われるので、見たことある方も多いのではないでしょうか。

北京に行くたびに、という程ではありませんが、それでも何度も訪れている場所です。確か釘を一本も使っていない建物だと聞いたような、読んだような記憶があるのですが、おぼろげな知識です。なお、この天壇公園の写真のみ1993年の暮れに訪中したときのものになります。

続いては北京飯店。当時も、西洋資本の新しくてきれいなホテルはたくさん建っていましたが、やはり北京のホテルと言えば北京飯店。東長安街、王府井の角に建つクラシックホテルで、落ち着いた雰囲気です。

それにしても、こうして見ると目の前の長安街に時代を感じますね。連結バスも古めかしいですし、街行く人の服装も、まだまだ垢抜けないところがあります。そしてまだまだ自転車が主力だった時代です。

次の写真は故宮内の宮殿前です。どの宮殿だったのかは忘れましたが、宮殿の基壇には流の彫刻が施されていて、確かこの写真の彫刻が故宮内で一番大きいものだと聞いたので撮った一枚だったと思います。

彫刻両脇の細い階段を籠担ぎの役人が歩き、皇帝は籠(輿)に乗ったまま、この彫刻の上を通ったのだそうです。最初に「皇帝はこの彫刻の上を通る」と知ったとき、こんな歩きにくいところを歩かされたのか、と疑問に思ったのですが、その後、輿に乗って上を通過すると聞いて納得したのも懐かしい記憶です。

故宮博物院に南から入場し北へ抜けると目の前には景山が聳えています。ちょっとした山で、頂上まで登ると息が切れます。でも、これまた多くのガイドブックに載っている、故宮の全景が眺められるので、北京に来たら登ってみたくなる場所です。

ただし、北京の北に聳えるので、故宮を撮ろうとすると逆光になります。写真が得意な人であればきれいに撮れるのでしょうが、あたしのような素人カメラマンにはなかなかうまい写真が撮れず、苦労する場所でもあります。それに北京はすっきり晴れることが少ないので。

そして最後に北京駅です。香港へ向かう特急列車は北京南駅から発車すると思いますが、この頃はまだそんな時代ではありません。当時も北京南駅はあったと思いますが、それほど大きな駅ではなかったのではないでしょうか。当時も現在も北京南駅に入ったことがないのでわかりませんが(汗)。

北京駅は、かつては前門のすぐわきにあったそうですが、現在は崇文門から程近い場所にあります。当時の北京旅行では、ほぼ毎回、崇文門に位置する新僑飯店に宿泊していたので、北京駅まで近いのでどんなところか見に行ったときに撮ったものです。このあたりもすべて変わってしまったのでしょう。

さて、ここまでの写真はご覧のようにワイドサイズになっています。当時発売された写ルンですのパノラマ版を持って行って撮ったものです。当時の北京は摩天楼はなく、横に長い建物や風景が多かったので重宝しました。

時には先の天壇のように縦に使って撮影することもありました。当時の北京の人は写ルンですを知らないからなのか、あたしが写ルンですを構えていると、こいつは何をしているんだろう、という顔をしてジロジロ見られた記憶があります。

ところで最後の一枚は、最初に載せた九龍壁ですが、アドビのPhotoshopの生成AIを使って、写真に写り込んだ人物を消去したものです。こんなことがいとも簡単にできるのですから、すごい時代になったものです。

色褪せた写真が見つかりました

昨日のダイアリーに書いた九龍壁。どうして写真を載せないの(?)と思われた方もいたのではないでしょうか? あたしも載せられるのであれば載せたかったのですが、あたしのPCの中に保存されていなかったので、テキストのみのダイアリーとなってしまいました。

学生時代に語学研修で北京へ行ったときに訪れたと書きましたが、それは1988年のこと。大学2年生から3年生になる春休みを利用して一ヶ月間、北京の外国語学院に滞在したときのことです。その時の北京滞在記のようなものはこちらに載せてありますので、お時間がありましたら読みください。

さて九龍壁ですが、まずは北京の故宮博物院の中にある九龍壁です。全体写真を何故か撮っていなかったので、九匹の龍のうち正面を向いているものをチョイスしてみました。こんな感じの龍が九体、浮き彫りになっているのです。

たぶん、これではわかりづらいと思いますので、次に同じく北京の北海公園内の九龍壁。こちらは全体の写真を撮っていたので、それを載せます。如何でしょう。九龍壁とはどんなものかおわかりいただけましたでしょうか。片面だけではなく、両面に龍がいますので、九龍壁とは言いながら両面で18体になります。

と書きながら、「あれっ、両面に龍がいたかなあ?」と不安になってきました。あたしの記憶では両面に龍がいたので、全部で18体の龍が浮き彫りになっていたはずなのですが、ちょっと不安になってきました。さて、あたしは残る人生で再び訪中して九龍壁を目睹することができるのでしょうか?

さて、最後に山西省大同の九龍壁です。昨日のダイアリーで大同の九龍壁は爪が四本と書きました。この写真でなんとかそれを確認していただけるのではないかと思います。そして北京の二つの九龍壁よりダイナミックだと思っているのですが、如何でしょう。

ところで大同と言いますと、中国三大石窟の一つ、雲崗石窟が有名かも知れませんが、週末の大同旅行は懸空寺、応県木塔なども見学しました。その見学先の一つに、この九龍壁があったのです。

これは大同の街中にあったので見学しやすいなあと思ったのを覚えています。でも大同の街の様子がどんなだったか、ほとんど記憶にありません。訪問から既に36年、大同もかなり変わったことでしょう。中国へ行ったのも最後が2007年、オリンピック前ですから、中国自体がまるで違ってしまったものになってしまったことでしょう。

最後に、今回載せた三枚の写真はすべて当時撮った写真をアルバムから探してきて、スキャンしたものです。あの頃はスマホはおろか、デジカメすらまだ一般的ではなかった時代です。