本日、見本出しです。(4月26日配本予定)
2022年のアーカイブ
近刊情報(22/04/18)
短篇の名手?
『郊外のフェアリーテール』を購入しました。
亜紀書房の《ブックスならんですわる》シリーズの第二弾です。第一弾は『青と緑』で、副題にもあるとおり、ヴァージニア・ウルフの短篇集で、今回の第二弾はキャサリン・マンスフィールドの短篇集です。
亜紀書房のこのシリーズは、女流短篇集で行くのですかね? 第三弾も楽しみです。
ところで、キャサリン・マンスフィールドと言いますと、あたしの勤務先からも『不機嫌な女たち』という一冊を出しております。非常に面白い短篇が集められていました。
そして新潮文庫にもそのものズバリ、『マンスフィールド短編集』という一冊があります。あたしも自宅の書架に備えておりました。
ちなみに、マンスフィールドは来年、2023年の1月9日が没後100年にあたります。それまでに各社から何冊か作品集が刊行されるのでしょうか?
これぞ八重の桜?
長篇の『ケンジントン公園』もようやく半分ほど読み終わりました。まだ先が長いです。《エクス・リブリス》シリーズは既に次の『人類対自然』も刊行されているので早いこと読み終えないと!
そんな風に読みたい本がどんどん溜まっていく今日この頃ですが、書店でこんな本が目に留まり、ついつい買ってしまいました。『読書セラピスト』と『編集者とタブレット』です。タイトルからも想像がつくとおり、どちらも本をテーマにした作品ですよね。やはり本好きとしては気になってしまいます。
ところで、少し前に近所の桜のトンネルを写真と共にご紹介しましたが、そちらは既に葉桜になっています。地面には桜の花びらも減り、おしべとめしべがゴミのように堆積しています。
しかし、そんな桜のトンネルの入り口付近に一本だけ時季を外して咲く桜があります。それが左の写真です。いまが盛りと咲き誇っています。
写真でわかっていただけるかなんとも言えませんが、実はこの桜は八重桜です。八重桜という明正が正しいものなのか俗称なのか、正確なところはわかりません。ただ、素人が見えてもソメイヨシノとは違うことははっきりしています。一つ一つの花がこんもりとしていて、色もソメイヨシノが白に近いのに対し、こちらはまさにピンク色です。
それなりに交通量のある交差点に面しているので、なかなかシャッターチャンスがなかったのですが、なんとか二枚撮ってみました。ほとんど同じ構図なのはお許しください。同じ場所から撮ったものですから。
もう少し撮影場所を変えてもよかったのですが、時間的に逆光になってしまい、桜全体も暗い感じの写真になってしまいそうだったので諦めました。
先に満開と書きましたが、根本付近には既に花びらが散っているのが見て取れます。この桜の見頃もあと数日と言ったところでしょうか。しかし、少しタイミングをずらして二種類の桜を、自宅の近所で楽しめるなんて、なかなか贅沢なことではないでしょうか。
雪隠る處
神保町にある、貸し会議室で開かれるのですが、そこのトイレに写真のようなメッセージが書かれています。
誰が創作したのでしょう? なかなか味わい深い一句です。
しかし、トイレのことを雪隠と呼ぶことを、令和の時代にどれだけの人が知っているのでしょう? そもそも「雪隠」を「せっちん」と読めるのでしょうか?
例会時にトイレに入ってこのメッセージを見るたびに、毎回そんなことを考えてしまいます。もともとは仏教から来た言葉ですよね。
トイレのことを単刀直入に口にするのを憚るのは、世界各国にある習慣なのでしょうか? 学生時代に中国語を学んでいたときに、中国語でもトイレのことを「一号」と呼ぶと聞いたことがあります。日本語でも「トイレに行く」ことを「ちょっとはばかり」と言うことありますよね。
今日の配本(22/04/15)
![オーケストラの音楽史[新装版] 大作曲家が追い求めた理想の音楽](//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4560094322&Format=_SL160_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=rockfieldroom-22&language=ja_JP)
オーケストラの音楽史[新装版]
大作曲家が追い求めた理想の音楽
パウル・ベッカー 著/松村哲哉 訳
大作曲家たちはオーケストラで何を表現しようとしたのか。表現や楽器編成の変化に込められた意図や、時代と社会をいかに反映したかを語る。
寒いのか? 暑いのか?
今日は寒いですね。
昨日から気温は何度下がったのでしょう? ただ今日の最高気温も日付が変わったころに記録しているはずなので、昼間は10数度は下がったことでしょう。
そんな冬に逆戻りしたような本日は在宅ワークでした。
でも、ここ最近の通例どおり、昼間は外回りに出ました。うまい具合に雨に降られず、傘を使わずにすみました。書店も駅から濡れずに行けるところばかりを選びましたので。
明日も寒くて、更に今日よりも雨になるみたいなので、イヤですね。
八重の桜ではなく、八重のチューリップ
そういう観点には思い至りませんでした
土葬と聞くと怪訝な顔をされるかもしれませんが、あたしが子供のころであれば、実際に見たことはないですが、地方へ行けばまだまだ残っていた風習だと思います。そのあたりのことは講談社現代新書の『土葬の村』に詳しいです。
記事の最後に同書の著者、高橋繁行さんの名前も出ていますが、あたしが記憶しているかぎり、同書ではムスリムに関する記述はなかったと思います。しかし、本日の記事を読むと土葬という風習が絶えつつある今日、逆に国際化した日本ではこういった困難が立ち現われてきたのですね。思いも寄りませんでした。
ただ高橋さんの著書でも、最近はごく普通の日本人でもあえて土葬を希望する人が少なからずいる,少しは増えてきているようなことが書かれていました。ここまで火葬が一般化してくると、土葬を復活させろとまでは言えませんが、土葬も選べるような環境は整えられてもよいのではないでしょうか。記事を読む限り、火葬か土葬かは信教の自由とも関わってきそうです。
そう言えば、キリスト教も土葬が多かったように思いますが、日本に住むキリスト教徒は火葬しているのでしょうか? ところで、土葬は日本にも古来合った風習ですからまだよいですが、今後、風葬とか鳥葬とか、川に流すとか、さまざまな埋葬方法が増えていくのでしょうか?
今日の配本(22/04/12)

シモーヌ・ヴェイユ
フロランス・ド・リュシー 著/神谷幹夫 訳
裕福なユダヤ人家庭に生まれ、教育熱心な両親の元で育ったシモーヌ・ヴェイユ。16歳でバカロレア(大学入学資格試験)、22歳という若さでアグレガシヨン(大学教授資格試験)に合格するも、その12年後、わずか34年で生涯を終える。本書は、シモーヌ・ヴェイユの兄であり数学者のアンドレ・ヴェイユから、「全集」(ガリマール社)の編纂を託され、2010年まで責任編集者を務めたフロランス・ド・リュシーによる待望のヴェイユ論である。ヴェイユの遺稿を手にしたカミュが「現代の唯一の偉大な精神」と呼んだように、この全集の編纂者は、34年の生涯にしては厖大すぎる量の書簡や日記、エッセーから何を読みとったのか。「重力」「不幸」「神」「根を持つこと」など、ヴェイユが取り組んだテーマを解説しながら、その人生と魂の遍歴を描き、聖なる異才の核心に迫る。


