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Rockfield's Diary
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ドラマ「アンラッキーガール」を見ていて思い出したこと

今期は日テレ系のドラマ「アンラッキーガール」を見ています。
「を見ています」ではなく「も見ています」の方が正確ですね。録画して見ているのは(放送時間には起きていないので)、先のダイアリーに書いた「じゃない方の彼女」と「言霊荘」、そしてこの「アンラッキーガール」です。なんのことはない、若月佑美、山下美月、西野七瀬と乃木坂46メンバー(元も含む)が出ているのが視聴理由のようです。
さて、その「アンラッキーガール」の主人公、福原遥演じる福良幸(ふくら・さち)の名前についての語られているシーンがありました。過去の放送回でも出て来ましたが、どうやら本来は「幸子」と命名されていたようです。それが父親がだらしなくて(というのは語弊がありますか? 役所でのちょっとしたうっかりで)「幸」で届け出をしてしまったそうなのです。そのため姓名判断が悪くなってしまった、というのがこのドラマのベースにもなっているわけです。
ところで「幸子」のはずが「幸」になったというエピソード、こういうことって意外と多いのでしょうか? 実はあたしが高校の頃大好きだった女の子の名前が「幸子」というのですが、ちなみに読み方は「さちこ」ではなく「ゆきこ」ですけど、その子が話してくれたところでは、ご両親ははじめは「幸」という名前にしようと思っていたらしいです。でもバランスなどを考えて「子」を加えた「幸子」になったんだと教えてくれました。
ドラマの福良幸とは逆で、それに別に親のうっかりではなく、きちんと考えた末の「子」の有無ですから、ドラマと真逆と言ってはいけないのでしょうけど、ドラマでこのエピソードが出て来た時、あたしは高校時代を懐かしく思い出していました。
ますます主人公のおかしさがパワーアップしている気がします

なんだかんだとバタバタしていて、今週の「じゃない方の彼女」をようやく視聴しました。
ネットを見ますと、やはり主人公・濱田岳の行動に理解できない、共感できない方が一定数いるようです。前にも書きましたが、不倫はダメ、妻や娘を裏切ってはいけないと考えているのだとしたら、自分からは一切連絡をしないというのが基本中の基本だと思うのですが、何かというと自分から連絡してしまう主人公。
知らず知らずのうちにハマっていくのが不倫なのでしょうか? とはいえ、ちゃんとした家庭もあり、ましてや相手は大学の教え子、これは完全にアウトですしょう、むしろ気持ち悪いです。
恋愛は自由なもの、理性では抑えきれないものだとけしかける母親、妻も昔の彼が忘れられない、むしろ無理して忘れるために主人公と結婚したとも思えるような前回のストーリー展開、これらは秋元康なりの言い訳なのではないかと思えますが、描き方が浅いので主人公の行動を全く擁護しきれていません。「あの奥さんじゃ、旦那だって浮気するよな」と少しでも視聴者に思わせるようであればまだ理解できますが……
と考えると、秋元康って自分が作ったおにゃんこのメンバーを嫁にしたんですよね。原作者がドラマ以上に気持ちの悪いことを実際にやっていたわけですから、こんなストーリーになってしまうのも致し方ないのでしょう。こんなドラマじゃ山下美月が可哀想になります。ただ見ていても「これは山下美月が悪い」という感想を持つ視聴者は少ないでしょうね。
近刊情報(21/11/19)

中華圏も頑張っている!

表紙からわかるように台湾の書籍の紹介冊子です。台湾文化センターが製作したもののようです。
世は挙げて韓国文学のブームだと盛り上がっていますが、実は中国関係の翻訳も最近はじわじわと増えています。
もちろん中国と言っても、中国大陸の作品、台湾の作品、香港の作品、そして東南アジア華僑の作品といったいくつかの種類があります。欧米で執筆している作家もいますが、ひとまず中国語で書いているという前提で中国の作品と呼んでいますが、それが確実に増えているのです。
『三体』の大ブームに見られるように、韓国のフェミニズムに対して、中国はSFといった印象が強いと思います。それはそれで間違いではありませんし、日本で紹介される作品もSFがそれなりのウェイトを占めています。
どうしてでしょうかね? 政治批判にならないために科学的なもの、空想的なものをテーマとせざるを得ないのでしょうか? そういう面も確かに一理あるとは思いますが、たぶんそれだけではないのでしょう。
そして、そんな中国語文学(という呼び方がよいのかわかりませんが……)、あたしも知らず知らずに買っていまして、わが家の書架の上に、ご覧のように並んでいるのがそれです。
台湾も大陸もごちゃ混ぜに並んでいるのはご容赦ください。あと、李琴峰さんのが数冊並んでいるのはご愛嬌ということで……
いずれにせよ、中国と言えば古典ばかりが受容されてきた日本で、魯迅以来、ようやくオンタイムの作品が普通に紹介されるようになったのは嬉しいことです。
これらは類書と呼べるのでしょうか?

このところ、書店の店頭でちょいちょい見かける本に『ケアの倫理とエンパワメント』があります。
自己と他者の関係性としての〈ケア〉とは何か。強さと弱さ、理性と共感、自立する自己と依存する自己……、二項対立ではなく、そのあいだに見出しうるもの。ヴァージニア・ウルフ、ジョン・キーツ、トーマス・マン、オスカー・ワイルド、三島由紀夫、多和田葉子、温又柔、平野啓一郎などの作品をふまえ、〈ケアすること〉の意味を新たな文脈で探る画期的な論考。
というのが梗概ですが、「ケアの倫理」と聞くと真っ先に頭に思い浮かべるのは文庫クセジュの『ケアの倫理』です。
現代のネオリベラリズムの社会とは、自律した個人が競争しあう社会である。しかしそれだけで、社会は成り立つのだろうか。人間は、実は傷つきやすく、ひとりでは生きていくことができないため人との関係、他人への依存を必要としているのだ。「ケア」とは、人の傷つきやすさに関わることであるが、その活動はこれまで私的なこととされ隠されてきた。自律した個人が競争できるのは「ケア」する人が存在するからであり、「世話をすること」の概念を見つめ直す。その倫理は社会関係の中枢に位置づけられるものであり、配慮しあう世界をめざす。本書はアメリカで始まった議論をフランスの哲学的背景からいっそう深めた解説書となっている。
この両書、タイトルは似ていますが類書と呼べるのでしょうか? ただ、書店店頭を見ていますと、「ケアの倫理」をタイトルに含む書籍というのは決して少なくはないようです。
一番新しいところでは、『ケアの倫理と共感』というものがあります。
感情主義的な徳倫理学の提唱によって現代倫理学に新たな道を拓いたスロートが、本書では「成熟した共感」という観点を掘り下げることでケアの倫理を義務論や功利主義と並び立つ規範倫理学として展開。発達心理学に依拠しつつ共感概念を洗練させ、人間の情緒や関係性に根ざした道徳理解から行為や制度の正/不正、自律と尊重を論じる。
この本の梗概は上記の通りです。このあたりの分野にはからっきし疎いので、これら三冊を一緒に並べて売ってもらうべきなのか、何の関連も脈絡もない、似て非なる三冊なのか、あたしには判断できません。
やはり営業部員としてはもっと勉強しなければなりませんね。
