悪霊路線で行くのか、行かないのか?

ドラマ「言霊荘」が徐々に佳境のようですが……

このドラマ、今のところは、主人公たちの住むアパートに取り憑いている悪霊が住人に祟っている、という展開です。主人公、なーちゃん演じる言葉が引っ越してきてからおかしなことが起こるのは、管理人室のドアを三回ノックしたのが原因というプチ謎解きがありましたし、最新回では過去にこのアパートで何が起こったのかが明らかにされました。そして零至が管理人室に引きずり込まれて、というところまで進んでいます。

さてネット上では、このドラマの真犯人捜しがも一部では盛り上がっているようです。つまり零現象に見えることもすべては誰か(真犯人)が仕組んだもので、そもそも悪霊もいなければ、言霊が原因というのも何ら根拠の無いことになります。確かに、悪霊の仕業と見せかけて実は生身の人間が真犯人でした、というホラーはたくさんありますので、本作もそうでないとは言いきれません。

あたしとしてはどちらでもよいのですが、生身の人間が真犯人だった場合、その目的は何か、どうして死ぬのは一号室の住人だけなのか、という理由が今のところ明かされていませんね。生身の人間=真犯人説に立った場合、さすがに犯人はここまでに登場した人物の誰かということにならないと抗議が来そうですが、あえて謎のまま残っているようなのは25年前に殺された人気女流作家・夏目三葉と仲が良かったとされる管理人の女性です。

はっきりとは描かれていませんが、管理人が夏目三葉を殺したとしか思えない状況でした。その後、管理人はどうなったのでしょうか? 逮捕され刑務所に入っているのでしょうか? いくらなんでも25年も刑務所暮らしはありえないと思うのですが、どうなのでしょう? あるいは逮捕もされずに逃亡したままなのでしょうか? もちろん逃亡の途中で自殺、あるいは病死など既に命を落としている可能性もあります。

管理人がドラマの現在時点で不在なのだとすれば、住民の誰かが管理人の関係者なのでしょうか? しかし夏目三葉はともかく、現在の住民を殺害する理由が見えてきません。いずれにせよ、このまま悪霊の仕業で済ませるよりも、実は犯人はこの人で、犯行理由はこうでした、と合理的な謎解きがされる方が楽しめると思うのですが、如何でしょう?

10周年だから……

昨日と今日、乃木坂46が東京ドームでコンサートをやっていますね。日向坂46のメンバーも何名からは見に行っていたみたいです。

そして、今宵のコンサートの最後に高山一実の卒業セレモニーが行なわれるそうです。まいやんの卒業コンサートがドームで出来なくなり、かずみんのセレモニーがドームで出来るなんて、なんとも皮肉なものです。そう言えば、まりかとひめたんの最後もドームでしたね。特にセレモニーのようなものはなかったですが、最後の最後の「きっかけ」は二人を送り出すための楽曲だったように感じられましたね。特別なセレモニーを行なうよりもはるかに感動的だったと思います。

それはともかく、昨日のコンサートで、来年のバースデーライブ、乃木坂46の10周年になるわけですが、それが日産スタジアムで5月に二日間行なわれることが発表されたようです。本来のバスラは2月ですが、どうして5月なのでしょう? またこの冬にコロナの第何波かが来て、2月だととても有観客ライブだという雰囲気にはなっているかもしれない可能性を考慮したのでしょうか? 確かに5月なら、コロナも落ち着いている可能性が高いでしょうし、そもそも野外ですから感染リスクも低くなるでしょう。野外という会場を選んだ時点で2月は寒すぎるから暖かい季節に、ということになったのではないでしょうか?

その10周年バスラですが、ネットでは卒業生、つまりOBも参加して欲しいという声も大きいようです。確かに10周年という節目ですから、OBがゲストに来るというのは考えられなくもないです。

ただ、個人的には、あたしはOBの参加は反対です。もちろんOBが観客席にいるというのは胸熱な光景ですが、ステージに上がるというのはどうなのでしょう? ちょっと違うのではないか、という気がします。

それに、そういう声を発している人の多くは、本音を言えば、なーちゃん、まいやん、ななみんの三人が中心に鎮座している乃木坂46を見たいだけなのではないかと思います。たぶん、そんなステージ、ファン以上に三期生、四期生が見たいと思っているのではないでしょうか。あたしだって見たいですが、それは言っても詮無いことだとわかっています。10周年の節目に、いまの乃木坂はこうなんです、という姿をいまのメンバーが堂々と見せればよいのではないかと思います。

ドラマ「アンラッキーガール」を見ていて思い出したこと

今期は日テレ系のドラマ「アンラッキーガール」を見ています。

「を見ています」ではなく「も見ています」の方が正確ですね。録画して見ているのは(放送時間には起きていないので)、先のダイアリーに書いた「じゃない方の彼女」と「言霊荘」、そしてこの「アンラッキーガール」です。なんのことはない、若月佑美、山下美月、西野七瀬と乃木坂46メンバー(元も含む)が出ているのが視聴理由のようです。

さて、その「アンラッキーガール」の主人公、福原遥演じる福良幸(ふくら・さち)の名前についての語られているシーンがありました。過去の放送回でも出て来ましたが、どうやら本来は「幸子」と命名されていたようです。それが父親がだらしなくて(というのは語弊がありますか? 役所でのちょっとしたうっかりで)「幸」で届け出をしてしまったそうなのです。そのため姓名判断が悪くなってしまった、というのがこのドラマのベースにもなっているわけです。

ところで「幸子」のはずが「幸」になったというエピソード、こういうことって意外と多いのでしょうか? 実はあたしが高校の頃大好きだった女の子の名前が「幸子」というのですが、ちなみに読み方は「さちこ」ではなく「ゆきこ」ですけど、その子が話してくれたところでは、ご両親ははじめは「幸」という名前にしようと思っていたらしいです。でもバランスなどを考えて「子」を加えた「幸子」になったんだと教えてくれました。

ドラマの福良幸とは逆で、それに別に親のうっかりではなく、きちんと考えた末の「子」の有無ですから、ドラマと真逆と言ってはいけないのでしょうけど、ドラマでこのエピソードが出て来た時、あたしは高校時代を懐かしく思い出していました。

ますます主人公のおかしさがパワーアップしている気がします

なんだかんだとバタバタしていて、今週の「じゃない方の彼女」をようやく視聴しました。

ネットを見ますと、やはり主人公・濱田岳の行動に理解できない、共感できない方が一定数いるようです。前にも書きましたが、不倫はダメ、妻や娘を裏切ってはいけないと考えているのだとしたら、自分からは一切連絡をしないというのが基本中の基本だと思うのですが、何かというと自分から連絡してしまう主人公。

知らず知らずのうちにハマっていくのが不倫なのでしょうか? とはいえ、ちゃんとした家庭もあり、ましてや相手は大学の教え子、これは完全にアウトですしょう、むしろ気持ち悪いです。

恋愛は自由なもの、理性では抑えきれないものだとけしかける母親、妻も昔の彼が忘れられない、むしろ無理して忘れるために主人公と結婚したとも思えるような前回のストーリー展開、これらは秋元康なりの言い訳なのではないかと思えますが、描き方が浅いので主人公の行動を全く擁護しきれていません。「あの奥さんじゃ、旦那だって浮気するよな」と少しでも視聴者に思わせるようであればまだ理解できますが……

と考えると、秋元康って自分が作ったおにゃんこのメンバーを嫁にしたんですよね。原作者がドラマ以上に気持ちの悪いことを実際にやっていたわけですから、こんなストーリーになってしまうのも致し方ないのでしょう。こんなドラマじゃ山下美月が可哀想になります。ただ見ていても「これは山下美月が悪い」という感想を持つ視聴者は少ないでしょうね。

中華圏も頑張っている!

書店でこんな小冊子が配布されていました。

表紙からわかるように台湾の書籍の紹介冊子です。台湾文化センターが製作したもののようです。

世は挙げて韓国文学のブームだと盛り上がっていますが、実は中国関係の翻訳も最近はじわじわと増えています。

もちろん中国と言っても、中国大陸の作品、台湾の作品、香港の作品、そして東南アジア華僑の作品といったいくつかの種類があります。欧米で執筆している作家もいますが、ひとまず中国語で書いているという前提で中国の作品と呼んでいますが、それが確実に増えているのです。

『三体』の大ブームに見られるように、韓国のフェミニズムに対して、中国はSFといった印象が強いと思います。それはそれで間違いではありませんし、日本で紹介される作品もSFがそれなりのウェイトを占めています。

どうしてでしょうかね? 政治批判にならないために科学的なもの、空想的なものをテーマとせざるを得ないのでしょうか? そういう面も確かに一理あるとは思いますが、たぶんそれだけではないのでしょう。

そして、そんな中国語文学(という呼び方がよいのかわかりませんが……)、あたしも知らず知らずに買っていまして、わが家の書架の上に、ご覧のように並んでいるのがそれです。

台湾も大陸もごちゃ混ぜに並んでいるのはご容赦ください。あと、李琴峰さんのが数冊並んでいるのはご愛嬌ということで……

いずれにせよ、中国と言えば古典ばかりが受容されてきた日本で、魯迅以来、ようやくオンタイムの作品が普通に紹介されるようになったのは嬉しいことです。

2021年11月18日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

これらは類書と呼べるのでしょうか?

このところ、書店の店頭でちょいちょい見かける本に『ケアの倫理とエンパワメント』があります。

自己と他者の関係性としての〈ケア〉とは何か。強さと弱さ、理性と共感、自立する自己と依存する自己……、二項対立ではなく、そのあいだに見出しうるもの。ヴァージニア・ウルフ、ジョン・キーツ、トーマス・マン、オスカー・ワイルド、三島由紀夫、多和田葉子、温又柔、平野啓一郎などの作品をふまえ、〈ケアすること〉の意味を新たな文脈で探る画期的な論考。

というのが梗概ですが、「ケアの倫理」と聞くと真っ先に頭に思い浮かべるのは文庫クセジュの『ケアの倫理』です。

本書の内容紹介は以下のとおりです。

現代のネオリベラリズムの社会とは、自律した個人が競争しあう社会である。しかしそれだけで、社会は成り立つのだろうか。人間は、実は傷つきやすく、ひとりでは生きていくことができないため人との関係、他人への依存を必要としているのだ。「ケア」とは、人の傷つきやすさに関わることであるが、その活動はこれまで私的なこととされ隠されてきた。自律した個人が競争できるのは「ケア」する人が存在するからであり、「世話をすること」の概念を見つめ直す。その倫理は社会関係の中枢に位置づけられるものであり、配慮しあう世界をめざす。本書はアメリカで始まった議論をフランスの哲学的背景からいっそう深めた解説書となっている。

この両書、タイトルは似ていますが類書と呼べるのでしょうか? ただ、書店店頭を見ていますと、「ケアの倫理」をタイトルに含む書籍というのは決して少なくはないようです。

一番新しいところでは、『ケアの倫理と共感』というものがあります。

感情主義的な徳倫理学の提唱によって現代倫理学に新たな道を拓いたスロートが、本書では「成熟した共感」という観点を掘り下げることでケアの倫理を義務論や功利主義と並び立つ規範倫理学として展開。発達心理学に依拠しつつ共感概念を洗練させ、人間の情緒や関係性に根ざした道徳理解から行為や制度の正/不正、自律と尊重を論じる。

この本の梗概は上記の通りです。このあたりの分野にはからっきし疎いので、これら三冊を一緒に並べて売ってもらうべきなのか、何の関連も脈絡もない、似て非なる三冊なのか、あたしには判断できません。

やはり営業部員としてはもっと勉強しなければなりませんね。

Cコードは気にするものなのでしょうか?

ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』が配本になりました。既に書店店頭に並び始めていることと思います。

ところで、この本は書店ではどこに並んでいるでしょう? 哲学思想の棚でしょうか? それとも歴史の棚でしょうか? 一つの鍵となるのが書籍に付いているCコードです。

本書の場合は「0022」、つまり「外国歴史」、書店の棚で言うなら「歴史(世界史)」の棚になります。

ところで、以前にこのダイアリーで取り上げtら『哲学の女王たち もうひとつの思想史入門』のCコードは「0010」なので「哲学」になります。書店でも「哲学」あるいは「哲学・思想」の棚になるでしょう。

以前のダイアリーでは、この『哲学の女王たち』の中に取り上げられている女性の一人がヒュパティアであると書いたわけです。そうなると、この両書は書店では隣同士で並んでいてくれると嬉しいのですが、Cコードに従うと別の棚に置かれてしまいます。

難しいところですね。『哲学の女王たち』に登場する女性に関する本が残念ながら日本ではそれほど出版されているとは思えません。すぐに見つかりそうなのは、エリオット、アーレント、ボーヴォワールくらいでしょうか。これらを一堂に会してフェアなんて企画しても面白そうですが如何でしょう?

そう言えば、ヒュパティアについて調べていましたら、こんな映画に行き当たりました。10年ほど前のスペイン映画です。この映画の主人公がヒュパティアです。残念ながらあたしは未見の作品です。スカパー!などで放送されたら是非見たいと思います。

今日の配本(21/11/15)

ニューエクスプレス・スペシャル
日本語の隣人たち Ⅰ+Ⅱ[合本]

中川裕 監修/小野智香子 編

通常のニューエクスプレスプラス・シリーズとは異なり、東アジアの端に位置する日本列島を取り巻く16の言語をそれぞれ「言語の概要+3章の会話と文法解説」というコンパクトな形で紹介します。どんなところで、どんな言葉が話されているのか、興味は尽きません。本書は2009年刊行『日本語の隣人たち』と2014年刊行『日本語の隣人たちⅡ』を内容はそのままに合本にしたものです。音声はウェブで聴く形に変更になりました。