同意できないところとできるところと

感情8号線』から。

一歳年上の彼氏とは予想通りに結婚の話になって私が渋ったら、別れようと言われた。中学校三年生の夏に初めて彼氏ができて上野毛に引っ越してくるまで十年以上の間、彼氏が途切れたことがない。別れてもすぐに新しい彼氏ができると思っていたのに、できなかった。
周りにいる同世代の男のほとんどが結婚しているか、結婚を考えている彼女がいる。そうでない人は、付き合いたくないような人ばかりだ。三十歳になって独身というのは、何か問題がある証拠だ。(P.201)

この一節、前半はまるでわかりません。だって、あたしはまるで逆。生まれてこの方、恋人が出来たためしがないからです。確かに世の中には、彼氏、彼女が途切れたことがない、別れたらすぐに他の人と付き合った、という経験をしてきた人もいるのでしょうが、その真逆で一生付き合ったことがなく生きてきた人だって、星の数ほど(←それは言いすぎ?)いるはずです。そして、その中の一人があたしです。

ただ、後半の「三十歳になって」云々、は理解できます。あたしなんか、三十はおろか、口にするのも恐ろしい年齢になってしまいましたが……。もちろん独身なのはバツイチでもバツ2でもなく、上述のごとく、恋人すらできない人間が結婚できるはずもなく今に至る、というわけです。

何か問題がある、それは自覚しています。結婚できない理由と言うよりは、恋人が出来ない理由を。

恋人はおろか友達すらできないのが現状です。いや、作ろうとする気があるのか、と問われると、「あるような、ないような」です。結婚はしたいと思うのですから、結婚相手を作る気はあるはずですが、友達を作りたいと思うかと聞かれると、あまり積極的に作りたいとは思いません。一生、結婚相手はおろか、友達すらいない人生でいいの、と聞かれても、他人は最後には裏切るものだ、というあたしの確信めいた信条があるので、だったら友達なんていない方が気楽だと思います。

そんなあたしですから、客観的に見れば、イヤなやつ、絶対に友達になんてなりたいとは思えない、そんなタイプです。自分で自分をそう思うわけですから、他人から見れば一目瞭然でしょう。

また必ず売れます!

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中途半端なプライド?

感情8号線』を読んでいます。

この本を手に取る人って、たぶん環八沿いに住んでいる、あるいは住んでいた、という人が多いのではないでしょうか? あたしもその一人です。

登場人物が少しずつ重なっているという構成はありがちな連作短篇ですから、別にこの作品でなくとも似たような小説は掃いて捨てるほどあると思います。それでも、この作品に惹かれ手に取るのは、この作者を追っているファン以外では、環八に何かしら縁のある人だからでしょう。

しかし、舞台となっているのは荻窪、八幡山、千歳船橋、上野毛、二子玉川、田園調布。

おいおい、抜けてませんか?

どこが?

高井戸ですよ、高井戸!

えっ、環八沿いにそんなとこ、あったっけ?

ありますよ、あります。井の頭線の高井戸駅、高架になった駅の下を環八が通っているではないですか!

とまあ、小学一年生から大学四年生までという、もっとも多感な時期を高井戸で過ごしたあたしからすると、自分の住んでいた高井戸だけ抜かされていることに、ちょっと忸怩たる思いが……。

高井戸だって、これらの街に決して劣らない街だぞ、と声を大にして言いたいところですが、二子玉川や田園調布と比べられると知名度にしても何にしても低く見られるのは致し方ない、という自覚はあります。それでも、八幡山や千歳船橋と比べたら、勝るとも劣らないという気持ちはあるのですが、世間には通用しないのでしょうか?

ただし、こんなあたしの思いも、荻窪以北の環八沿いに住んでいる方からすれば、そちらは相手にもされていないわけで、「何を言ってんだか」ということなのでしょうか? 確かに、あたしも「高井戸が入ってない」と訴えたいとは思っても、井荻とか平和台とか、練馬・板橋方面の環八沿いはまるで眼中にありません。ましてや東京の東の方の環八など、どこを走っているのかすらわかっていないのですから、極めて中途半端な異議申し立てです。

ただ、言い訳をさせてもらいますと、環八って、あたしが高井戸に住んでいた頃は、荻窪の北を少し行ったところで終わっていたんです。東京の東の方は東の方で別途環八が作られていたはずですが、荻窪から田園調布に至る西側の環八とは結ばれていなかったのです。つまり全然「環状」ではなかったのです。

その当時のあたしの意識でも、環八は荻窪まで、というのが一般的な感覚で、その後の、谷原まで延びて関越と繋がりましたが(それ以前にも細い道で繋がっているには繋がっていたと思います)、それは笹目通りであって環八ではありませんでしたから。

それに、この小説に登場する、いわゆる環八は、その当時交通量が増えたことから渋滞が激しくなり、少し東側を走る環七と共に「通りの上に排気ガスによる雲ができる」とまで言われたこともありまして、それなりにニュースにもなっていました。ですから、環八と言えば荻窪から南へ延びている、中途半端な環状道路というのが一般的な認識だったと思います。

で、高井戸あたりに住んでいると、世田谷の一部地域とは伍しているような気持ちを持ちつつも、荻窪以北に対しては馬鹿にして見下すという中途半端なプライドの塊を持ってしまうのです……(-_-;)

ゴメンナサイ。