懐かしいという言葉は不謹慎に聞こえるかも知れませんが、あれからもう19年ですか?
ベストセラー『倒壊する巨塔(上)』『倒壊する巨塔(下)
』が刊行されたのが2009年ですけど、あれから世界は変わってしまったような気もします。
世界というよりも、争いのスタイル、戦争のあり方が変わったと言った方がよいのかも知れません。いわゆるテロとの戦争です。テロはもちろん非難されるべきですが、中国政府などテロを口実に民衆を弾圧する手段にも使われていて、なんとも使い勝手のよい言葉ですね。
今日9月9日は重陽の節句?
はい、確かにそうですが、このダイアリーで何度か書いていますように、あたしの父の命日です。もう二十数年前のことです。ちなみに父の母、あたしの祖母も同じ9月9日が命日です。祖母は父が幼少のころに亡くなっていますので、あたしが全く知らないのは当たり前ですが、父ですらほとんど記憶がなかったそうです。
しかし、今日は毛沢東の命日でもあります。
なんか縁を感じます。あたしが中国学を学ぶようになったために、毛沢東の命日に父が亡くなったのではないか、と夢想したりしますが、ただ単に自分の母親があの世から息子を呼んだだけなのかもしれません。
毛沢東や近現代中国に関する書籍は山のようにありますが、とりあえず『毛沢東 ある人生(上)』『毛沢東 ある人生(下)
』をお薦めいたします。
文春オンラインにこんな記事がありました。
スポーツの世界に政治的な主張を持ち込むことの是非についての日米比較といった感じの記事です。日本でもようやく最近になって変わってきたと感じますが、スポーツ選手や芸能人が政治的発言をするのをタブー視するような風潮がまだまだ残っています。
「よく知りもしないくせに門外漢が口を出すな」という訳のわからない講義もあれば、やはりスポンサーの意向というのも大きく左右しているようです。でも、スポンサーと言うことであればアメリカのスポーツ選手や著名人だって同じこと。その政治的発言のせいで企業がスポンサーを降りるとなったら、むしろスポンサーが槍玉に挙がりそうですね。
それはさておき、この記事の中に「女子テニス界は昔から白人中心社会で、黒人選手は活躍しても人気が上がらなかった」という箇所があります。確かに、テニスと聞くと金持ちがやるスポーツというイメージが日本でも流布していると思いますが、それもあながち的外れでもなかったわけですね。
そんなテニスの世界における差別に関心をお持ちの方にお薦めしたいのが『ラブ・ゲーム テニスの歴史』です。人種差別だけを扱った本ではなく、テニスの歴史そのものを描いたノンフィクションですが、その中で差別問題も重要な部分を占めています。内容紹介次のようなもの:
第1部では、発祥から19世紀を経て20世紀前半までのテニス史を、当時の時代背景や先駆的な選手たちと絡めて概観する。第2部では第二次世界大戦後のテニスを扱い、オープン化に至るまでの流れ、性差別や人種問題などが論じられ、とりわけ選手の同性愛についての議論は興味深い。第3部では70年代以降、企業と結びつき、テレビ中継によって娯楽として根付いてから、80年代にテニスブームが去った後、現在までの流れを追う。
いまでこそ女子テニス界で大坂なおみを始めとする黒人も大活躍していますが、その歴史は意外と浅いということがわかると思います。そう言えば、メジャーリーグでも、初の黒人選手を称えて全員が同じ背番号でプレーする日がありましたね。アメリカのスポーツの歴史で差別は避けて通れない問題なのでしょう。
ベネディクト・セール 著/武藤剛史 訳
本書は、イエスの磔刑からローマ教皇フランシスコの選出まで、およそ二千年にわたるキリスト教会の歴史をたどりながら、「教会とは何か」という問いに、多面的なアプローチを試みる。100の出来事は誰もが知っているものもあれば、そうでないものもある。出来事の主役だけでなく脇役に焦点をあてることもある。また、教皇に宣教師の派遣を要請したクビライ・ハーン、安土桃山時代のキリシタン大名・大村純忠といった、ヨーロッパから遠く離れたアジアでの出来事や、アメリカ、アフリカ、オセアニアなども取り上げている。ローマ・カトリック教会のみならず、プロテスタント教会、正教会、世界中の文化圏の教会を結びつけ、教会をひとつの定義のなかに押しこめることなく広く捉えることで、さまざまな相貌を描き出す。
先週からドラマ「恐怖新聞」が始まりました。昨晩がその二回目でした。
原作と言いますか、つのだじろうの「恐怖新聞」はなんとなく記憶の片隅にあるような、ないような、少なくとも当時読んだことはなかったはずです。
さて、ドラマです。
ネットでは突っ込みどころ満載のドラマとして早くも話題になっているようですが、個人的には楽しんで見ています。やはり、ホラーって好きなんですよね。
第二回の今回、主人公は未来に起こる殺人事件を防ごうと虚しい奮闘をします。でも、恐怖新聞が届いたとして、あるいは未来の事故、事件がわかったとして、自分だったらどうするでしょうか?
確かに家族とか知り合いのような親しい人だったら、なんとか死なずに済むように手立てを講じようとするかも知れませんが、それ以外だったらどうでしょう? 別に事件は必ずしも自分の見ている前で起こるとは限らないようです。
自分のあずかり知らないところで、一面識もない人が亡くなるなんて、冷たい言い方かも知れませんが、そんなこと毎日のように起こっていることです。それに対して毎回反応していたら、体がいくつあっても持ちません。放っておくに限るのではないでしょうか? あたしだったら、たぶんそうします。
となると、なんら「恐怖」新聞でもありません。単なる事件、事故専門の「未来」新聞でしかないのではないでしょうか?
9月になりました。
考えてみると、もう半年近く書店営業に行っていません。他の出版社はどうなのでしょう? 都心部の大型店などは顔を出している出版社もあるみたいですが、全体的にはかつてのような沿線をこまめに回って歩くような営業は影を潜めているようです。
それが出版社の売り上げにどういう影響を及ぼしているのか、営業スタイルは今後どうなるのか、ということも気になりますし、真剣に考え、取り組まなければいけない課題ではありますが、それよりも気になるのは書店の現場です。やはり読者や、その読者と直接接する書店がどうしたいか、どうして欲しいかによって出版社の営業も変わってくると思うので。
単純に考えると、出版社の営業がぱったり来なくなって、書店の方は営業マンとの商談・雑談に取られていた時間が解放されるので、棚のメンテやお客様対応に十分な時間が取れるようになったのではないかと思います。「アポも取らずに突然忙しいときにやって来て……」と言われることの多い出版社営業がほとんど来なくなったのですから、書店現場としては万々歳なのではないでしょうか?
一方、営業マンからいろいろと貴重な情報をもらっていたのがなくなってしまって(減ってしまって)困っているという書店員はどれくらいいるのでしょう? ネット全盛の時代、営業マンが持ってくるような情報は簡単にネットから手に入れることが出来るでしょうし、更に広範な情報が手に入ると思います。「書店でパソコンの前に座っている時間なんてないよ」という意見もあるでしょうけど、それこそ営業マンとの会話の時間がなくなったぶん、その時間をネットでの情報収集に使えば営業マンと話をする以上の情報を得ることができるようになったのではないでしょうか。
とまあ、書店現場に足を運んでいないと、そんな妄想というか想像が頭の中に浮かんできます。この半年、皆無とは言えないまでも、以前と比べればほとんどなくなったと言える出版社の訪問営業、その影響がどんな風に現われているのか、誰かレポートしてくれないでしょうか?