既に原書を手にされている方へ

いよいよ配本になったミルハウザーの新刊『ホーム・ラン』ですが、原書のタイトルは『Voices in the Night』で、ミルハウザーの16の短篇が収められた作品です。

原書まで追いかけている熱心なファンであれば、原書と比べて「おやっ」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか? なぜなら今回の『ホーム・ラン』には8作品しか収められていないからです。そのあたりの事情は公式サイトにも

スティーヴン・ミルハウザーの最新短篇集Voices in the Nightは、2冊に分けて刊行する。まず1冊目が、それぞれ多彩な奇想に満ちた8つの宇宙が詰まった本書『ホーム・ラン』だ。(2冊目は『夜の声』[仮題]として2021年刊行予定。)

と説明されています。「訳者あとがき」でもう少し言葉を補いますと、

(前略)本来ならその十六本を翻訳書でもそのまま一冊の本に収めればよいはずなのだが、そこで生じるのが、厚さの問題である。一般に、アメリカで出版される小説は日本より厚めである。人気作家であれば毎年二、三冊本を出すことも多い日本とは違って、アメリカでは作家が数年かけて一冊の長篇を出すだけのことも珍しくない(生活の手段は、大学で教えるなど、別のやり方で確保する)。勢い、一冊一冊は厚くなる。これは短篇集でも同じで、日本だったら二冊、三冊分あるんじゃないかと思える分量が、一冊のなかに収められていることも多い。そしてこの Voices in the Night もまさにそうで、このまま翻訳書を出すとおそらく五百ページを超える分量になる。それは日本の出版事情を考えるとさすがに少し長いのではないかと…(後略)

ということで、ミルハウザー氏に断わって二分冊にして刊行することになったのです。残りの8作品刊行まで、楽しみが増えたと思って、いましばらくお待ちくださいませ。

今日の配本(20/07/09)

ホーム・ラン

スティーヴン・ミルハウザー 著/柴田元幸 訳

精緻な筆致、圧倒的想像力で名匠が紡ぐ深遠な宇宙。表題作や「ミラクル・ポリッシュ」など奇想と魔法に満ちた8篇と独特の短篇小説論。

中学時代を思い出します

九州における豪雨のニュースに釘付けになっていたら、こんどは岐阜、長野が……

大きなニュースにはなっていないようですが、四国や紀伊半島、関東近郊では箱根なども相当な雨になっているようです。やはり地球温暖化の影響なのでしょうか?

それはともかく、今回のニュースで何度も取り上げられた筑後川。もちろん名前は知っていましたし、有明海へ注ぐということも知っていました。しかし、上流が大分県の日田地方にあるとは、今回のニュースで初めて知りました。ニュースで、大分県と筑後川が結びつかず、地図を見て初めて納得した次第です。

その筑後川、確か何年も前に出張で久留米へ行ったときに、久留米の紀伊国屋書店の前を悠々と流れているのが筑後川だと知り、初めてその姿を目にしたものでした。あの筑後川が上流では暴れまくっているとは……

で、筑後川なんですが、あたしには多少の思い入れがあります。

別にかつて流域に住んだことがあるわけではありませんし、知り合いが住んでいる(住んでいた)ということもありません。そういった意味では縁もゆかりもない川なんですが、皆さんは「筑後川」という合唱曲をご存じでしょうか?

あたしも音楽の詳しいことは知りませんが、たぶん「筑後川」はいくつかの楽章に分かれているのだと思いますが、その中の「河口」という曲(楽章?)を中学時代の合唱祭で、クラスで歌ったことがあるのです。あれ、中学時代だったかしら? 高校の時だったかしら? ちょっと記憶があやふやです。

ただ、「河口」をクラスで歌ったことがあるのは本当で、それ以来、ニュースなどで筑後川と聞くと、自然とこの歌が頭の中に流れてくるのです。もちろん合唱曲なので、主旋律ではなく、あたしが歌っていたバスやテナーのメロディーで、ですが(汗)。久留米で見たように、確かに悠々とした、スケールの大きな曲だったなあという思い出があります。

まあ、久留米の紀伊国屋書店は決して河口付近にあるわけではありませんが、長い長い筑後川全体からすれば、河口にほど近いところにあったと言えるのではないでしょうか?

痒いところに手が届かないミュージアムショップって……

今日は在宅ワークではなく休暇を取りました。そして、母を連れて東京国立博物館へ。お目当ては右の写真、「きもの」展を見るためです。

あいにくの空模様でしたが、なんとか傘を使わずには済みました。しかし、時折パラパラと降ってくる空模様、湿度はほぼ100パーセントだったのではないでしょうか? 直射日光が照りつけるのもいやですが、ムシムシと湿気が多いのもいやですね。

コロナウイルスのため会期が大幅に変わり、なおかつ展示品の中には日本へ持ってくることが出来なかったものも何点かあったようでした、それでも古くから現代までの着物を一気に観られるとあって、とてもよい目の保養になりました。密を避けるために入場の人数制限をしているので、最初の数点こそやや混み合っていたものの、その後は広々とした会場でほとんど他の来場者に邪魔されず、じっくりゆっくり見て回ることができました。

やはり、それなりの入場料を取るわけですから、本来、美術館や博物館にはこのくらいの参観環境を日頃から整備して欲しいところです。とはいえ、本館の常設展なんて、いつ行ってもガラガラだったりするわけですが……

朝イチで見に行って、少し早めの昼食は、上野駅前にあるねぎしの牛タンでした。とても美味しかったです。満足、満足!

さて、今回の展覧会、実はいくつか不満というか、改善して欲しいところがありました。まずは入場時です。日時予約をしなければいけないのはわかりますし、そのチケットの確認も大事です。しかし、正門のところでは持っているのかを確認するだけで、バーコードを機械で読み取るようなことはしません(これは会場である平成館の受付で行なわれました)。いったい何のために正門であれだけの人数をかけてチェックしているのでしょう?

なおかつ、日時予約券のチェックだけなのかと思いきや、チケットも見せてくださいとその場に来てから言われました。繰り返しになりますが、あれだけ無駄に人員がいるのですから、並んでいるときにどのチケットを用意しておくべきかきちんと伝えて欲しいと思います。たぶん、民間であれば、その半分の人数で捌けるでしょうね。

そして、今回の一番の後悔、あたしの痛恨のミスかも知れませんが、一番不満が残ったのはミュージアムショップでした。いつものように、展覧会に関するグッズなどは会場内、平成館の二階にありまして、図録や一筆箋など買って帰りたくなるものがたくさん並んでいました。

しかし、今回あたしは、前に見に来た展覧会の図録を買っていなかったので、それも欲しかったのです。なので、「きもの」展の図録も一緒に買えばいいやと思って、会場を出て本館のミュージアムショップへ向かいました、こちらでは過去の特別展の図録なども売っていますから。

そして、目的の展覧会図録は見つかったのですが、こんどは「きもの」展の図録やグッズなどは全く置いてありません。ちょっと待ってよ! これではなんのために平成館で買わずに出て来たかわかりません。そんなことを言えば、見つけたところで買っておけ、と言われるのでしょうが、確かここのショップは1万円以上でないとクレジットカードが使えないはずでした。ちょっと財布に持ち合わせが少なかったので、カードを使おうと思っていたので、そして合計金額が図録を複数買って、一筆箋とかいろいろ買えば、ちょうど1万円くらいだなと算盤を弾いていたのですが、それがすべてパーです。

結局、買いたかった過去の図録も買わず、きもの展の図録も買わず、もちろん一筆箋などのグッズも買えず、ただ展覧会を見て帰ってきただけになってしまいました。確かに密を作らないようにという配慮があるのかも知れませんが、本館のショップにも平成館で売っているものを(すべてとは言わないけれど、主立ったものは)並べて欲しいところです。せめて図録くらいは置いてくれないと話になりません。

今後、きもの展の会期中に常設展を見に行って、「そうだ、この前買わなかった図録を買いに行こう」と本館のショップへ行っても図録が買えないなんて、ちょっとおかしくはないでしょうか、と思うのです。

生誕と没後

来月は、塚本邦雄のさんの生誕100年、河野裕子さんの没後10年となります。

あたしの勤務先は、なんとお二人の評伝を出しています。どちらも個人の息子さんが執筆されているという共通点があります。もちろん偶然ですが。

もし店頭で、ちょっとしたフェアやミニコーナーなどを作るのであれば、これらの書籍も並べていたケルト幸いです。よろしくお願いいたします。

たぶん一番よい参考文献です

NHKの番組「世界の哲学者に人生相談」で次回取り上げられるのは、アダム・スミスだそうです。

アダム・スミスと言えば『国富論』でしょうか? あるいは『道徳感情論』でしょうか? いずれにせよ、テレビ番組を見たからといって、いきなり原典に挑むのはちょっとハードルが高いものです。となると、手頃な参考文献はないだろうかということになります。

そこでお勧めなのが『アダム・スミスとその時代』です。スミス研究の世界的権威による著作の邦訳で、刊行当時には読売・朝日・毎日・日経という4大紙に書評が載るという快挙を成し遂げた一冊です。単行本だとちょっと重いんだけど、という方もいらっしゃるかと思いますが、こういう番組を見ている方であれば、このくらいの書籍は苦にならないはず。まだ未見の方、この機会に是非どうぞ!

他人の褌ならぬ、ポップで相撲を取ってみた?

書店に置いてあったのでいただきました。集英社刊、千早茜著『透明な夜の香り』の拡材です。

一番右側の小冊子(ミニパンフレット)は、どの出版社でもよく作っている拡材ですから、さほど珍しいものではありません。興味を惹かれたのは真ん中のポップです。なんと、香水の瓶の形をしているのです。

香りは、永遠に記憶される。きみの命が終わるまで。元・書店員の一香がはじめた新しいアルバイトは、古い洋館の家事手伝い。その洋館では、調香師の小川朔が、オーダーメイドで客の望む「香り」を作る仕事をしていた。人並み外れた嗅覚を持つ朔のもとには、誰にも言えない秘密を抱えた女性や、失踪した娘の手がかりを求める親など、事情を抱えた依頼人が次々訪れる。一香は朔の近くにいるうちに、彼の天才であるがゆえの「孤独」に気づきはじめていた――。「香り」にまつわる新たな知覚の扉が開く、ドラマティックな長編小説。

上掲の引用は本作の内容紹介で、読めばわかるように、このポップは作品の内容に合わせて作られたものです。といはいえ、それにしても凝ったポップですね。ここまでやるのか、とちょっと敬服してしまいました。

しかし、それなら、このポップ、むしろ文庫クセジュの『香水 香りの秘密と調香師の技』のポップとして使った方がよりふさわしいのではないかと思い、ちょっとそれっぽく置いてみたのが上の写真です。如何でしょう?

みくりでも、平匡でもなく、ゆりちゃんなのよ

TBS系「逃げるは恥だが役に立つ」の再放送、最終回、堪能いたしました!

いやー、ガッキーが可愛いです。たまりません。

当時の放送も見ていたし、Blu-rayも買ったあたしですが、見ていて思うのは、みくりや平匡よりも石田ゆり子演じるゆりちゃんに感情移入してしまうと言いますか、立場を置き換えてしまうことが多々ありました。

もうじき50の独身女性、あたしはとっくに50を過ぎていますが、やはり独身です。一生独身でいるのかなという漠たる不安というか予想は平匡にもゆりちゃんにも(そしてあたしにも)共通していますが、その切実度は全然違います。

いや、当人たちがどれほど切実に思っていたのかはわかりません。縁があれば結婚したいという気持ちは二人とも持っていたと思いますが、現実問題として、あたしの場合、既に諦めの境地です。

平匡にしろ、ゆりちゃんにしろ二人とも優雅な独身生活を謳歌していました。いや、平匡は最後にリストラされてしまったわけですが、SEとしてのキャリアとスキルで転職も何とかうまくいい気そうですし、ゆりちゃんは部長にまで昇りつめ、生活するぶんには困らない収入が保証されているでしょう。

それに引き換えあたしときたら……

この歳になって恋だの愛だの、そんなものが可能だとは思えませんし、そういう気持ちが持てたとしてどうしたらよいのでしょう? 単に老後の不安を解消するため、孤独死だけはしたくないということなら、これもあたしはとっくに覚悟を決めています。茶飲み友達も別に欲しいとも思いません。

あたしの場合、とりあえず母と二人暮らしなので、現在はそう思っていられるのでしょうが、母が近い将来に他界したら、あたしの気持ちも変わるのでしょうか?

またしても思い出してしまいました!

またしても昨日の朝日新聞の夕刊から。

「赤い肌」とはまた露骨なチーム名でしたね。

しかし、ネイティブアメリカン、あたしが子供のころはインディアンと呼んでいましたが、彼らはあたしたち日本人と同じモンゴロイドではなかったでしたっけ? だとすると、アジア人は「イエロー・モンキー」などと呼ばれる反面、インディアンは「レッド・スキン」と呼ばれていたのですね。ちょっと興味深いです。

それはさておき、この記事をまたしても読んで思い出してしまいました。何を思い出したのかは、既にダイアリーに書いたことがありますので、こちらをお読みください。

まあ、「赤い肌」と「赤い人」ではだいぶ異なりますが……